天と地の間に
  
品川教会2代教会長 
 
川上真一 影山人 
 
    随筆

  その1 
徒弟募集  上京編
 
心細くて下車
 人間は生まれるに、時と所を選ぶことが出来ない。平安時代、徳川時代、戦中、戦後などと勝手に選ぶ人はない。また、親も貧富も選ぶことなく、生かされる時代を背景として、天と地との間で一人ひとりが頂いた命を持って、それぞれの立場で生きて行くので、まさに生かされて生きていると言わねばならぬ。

  旧制時代は、家の相続は長男と定まり、民法で戸主としての権利「家督の相続」と、「祖先の祭祀」を受け継ぐ義務が長男にあった。いわゆる、釜の下の灰まで長男の物と言われて、重き責任と義務を
負ったものである。
 
 したがって次男以下は他家に養子に行くか、己の腕一本スネ一本で世に生きて行く運命であることは、幼少の頃より自覚するように育てられているので、何時の頃よりか、将来に向かってあれこれと迷想するようになるのである(親の慈悲で、財産分与を受ける者は別であるが)。
 戦後、新憲法の制定により、すべての子供に遺産相続の権利が生じたのであるが、祖先の祭祀は言わないで権利のみが主張され、所々に兄弟せめぐ観を呈しているのは悲しむべきことである。
 
 教祖金光大神様は、今より二百年近く前であるが、備中の農民の貧しい家の五男三女の中に、二男として生まれられ、十二歳の時、養子として近村の赤沢家にもらわれ、慈愛深き親の下を離れられました。
 
 私も備中の百姓の倅、二男であります。二歳上の兄がおりますので相続の要はなく、何時か他家に出る身であると考え、大正十四年旧正月、「徒弟募集」の新聞広告を見て、奉公せんものと岡山市を目指して出かけました。

 しかしいざ家を出たものの途中心細くもなり、笠岡辺りでフト、『そおだ、金光には教会の先生がおられるはずだ』と、このまたたく間の思いが奇しき神慮にや、金光駅に下車、ご本部に黒忠教会の山下先生をお尋ねしたのが今日につながるのであります。
   
   
量り知れぬもの
 人の世は、運命というはかなきものの手にあるのか、量り知り得ぬ神様のお導きに生かされるのか、岡山まで切符を買いながら、ふと思い出したのは、教会の先生(黒忠教会長山下鏡影先生)が金光の御本部におられることでした。二三度お参りしたことがあるのでお住居に参りますと、御本部に出務中とのことで、事務所にお訪ねいたしました。その時、コーヒーというものを初めて飲まして頂きながら、将来について思案して奉公でもしたい考えを話しました。
 先生は、私の祖母のことをお話し下さった。祖母は、私が生まれる年に亡くなっておりますので、私は顔も知りません。 「お前のお婆さんはよい信心をした者だ」と言って神様のお手伝いをしたことなどお話し下さいまして後、「神様のご用をしてはどうか考えてみよ」とのことでありました。
 過ぐる年、父が大病を患い、一家が悲しい思いをしました。私も、長らく学校に行けない苦しい病気の中、神様に助けて頂いたことなど思いつつも決心がつかず、神様のご用とは何をするのか、全然解らぬ私でありました。「親と相談してみよ」と言われて帰途に着きました。
 

  
西も東も分からぬままに
 金光から笠岡、笠岡からは可愛らし井笠鉄道で、井原に下車した時には、日は暮れかかっておりました。井原から二〇キロを徒歩で帰ることは出来ず、旧正月の寒空に野宿も出来ず、これは困った。トボトボ歩いている地名も知らず、とある軒下に一人の少女がおりました。見れば、我が家の近所で幼少の頃から共に遊んだチイヤンという子でありました。奉公に上がったばかりで、話しても共に困るだけでありました。様子を見ていたその家の主人が「知っている人か」と尋ねてくれました。近所のことで、親兄弟からよく知っていることを話しますと、泊っていくように奨めてくれました。温かい布団の中で、今日一日のことを顧みて熱い涙でなかなか寝られませんでした。家に帰れば家でも、有ったことなど、神様の御催しと言わねばならぬことばかりでした。
 斯くて先生より手紙来り、「私に任せよ」とのことで、家族相談の上、先生にお任せいたしますということになったのであります。その後、先生より東京に行けと言われ、お任せしたのであるからお言葉に従うのが筋であり、西も東も分からぬ山猿が俄に都に飛び出して演ずることの是非は、神様だけが御存知か。 おわり
          



























          
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