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     不自由を行として
     〜平成24年新年にあたり〜      

 

  金光教品川教会長 
  川 上 功
 績

 おめでとうございます。心新たに一年の無事と信心の成長を祈ってまいりたいと思います。特に昨年の震災と原発事故は、私達の社会や生活に問題はなかったのか、私達の生き方に反省するところはないのか、なにが幸福なのかなど、真剣にいろいろ考えさせられる一年でした。あらためて、幸せとは?と問われれば、一言で言うわけにいきませんが、身体の無事、生活に不自由のないことも大切なことですが、教祖様の教えに基づけば、「難儀はわが心、安心になるもわが心」と仰るように、「安心の心」をどのように持つことができるか、育てることができるかということに関係があるでしょう。 

      幸福の物差し  
 昨年秋、ブータン国のワンチュク国王夫妻が来日、「心の幸福度」という話が話題になりました。「物の豊かさ」を幸福の基準に生きてきた私たちに、「心の豊かさ」を基準にして清貧に生きる国のあることを教えてくれました。その清々しさに心洗われる思いでした。これも刹生を戒め、自然と共に、人と仲良く助け合って生きるチベット仏教の教えを国民生活の基本にしたお国柄なるが故のことでしょう。どれほど物に恵まれていても、物に愛着を覚えず、大切に生かすこともなく、絶えず、新しい物に心奪われて生きている?日本の私達に、幸福とはどんなことか、人間の生きる喜びや幸せは何かなど、大切なことを教えてくれたような思います。  

 これは、信心の上でも同じです。信心しておかげを受け、幸せになりたいと願いますが、その幸せを計る物差しは、どんな物差しで計ればよいのでしょう。大きさもなければ重さもない人の心、人の眼に触って計れない物差しはどんなものなのでしょう。
 思いますにそれは、教祖様が「難儀はわが心、安心になるもわが心」「おかげは和賀心にあり」と教えらていますように、一人ひとりの心のありよう、思いのもちようということになるでしょう。それを思うにつけ何時も心深く思うお話があります。  

      耳は遠くなったけど  
 お一人は、高齢になったお母さんの信心に教えられ、自分もお母さんのようになりたいと思われた話です。八十を越え、耳も少しずつ不自由になって万事に心細くなるお母さんが、月例祭には先生の教話を楽しみに教会にお参りされます。娘さんは、耳が遠くなって車も危ないし、お参りして先生のお話もよく聞き取れないのに、何が嬉しくて、何を楽しみにお参りするのかと不思議に思いました。それで娘さんがお母さんに聞きました。『おかあさん、お教会にお参りして先生のお話が聞こえないんでしょ?』と言いますと、『そうだね、先生の話は聞こえないけど、先生の口元を見ながら、昔聞いた沢山の有難いお話を思い出しているんだよ。それが有難くてお参りさせてもらうのよ』。これを聞かれた娘さんは、そういうお話の聞き方があったのか、そういう信心があったのかと心開かれ、お母さんが亡くなられるまで一緒に付き添ってお参りされたというお話です。なんという幸せでしょう。なんという信心の豊かさでしょう。「有難さ」を物差しに 生きられたお母さんの徳が偲ばれます。  

      原点を忘れない  
 次は、私の師匠安田師夫妻のお話です。私達家族が、安田先生が教監になられて本部に行かれた後の小田原教会の留守番(昭和49年〜51年)の御用をさせてもらった時の話です。教会の各部屋は、整頓され明るかったのですが、奥の六畳の部屋だけが暗い電灯が一つ点いていました。あまりにも暗く不自由なので明るい電球に替えました。ある時、先生夫妻が帰られ明るくなった部屋をご覧になってこんな話をしてくださいました。『この部屋は、わざと暗くしておいたのです。この教会にも本部参拝の費用にも、月例祭の神饌も整えらないような苦しい時がありましたが、だんだん神様のおかげを頂いて生活させて頂けるようになりました。人は、生活が楽になると通ってきた苦しみを忘れがちです。頂いた神様のおかげ、信心のありがたさを疎かにしやすくなります。それでは神様に相済まない。私たちの原点を忘れないために当時のままに部屋を暗くして、部屋に入るたびに神様の有難さを思い返しては、信心に励ませてもらってきたんです」と奥様が笑顔でおっしゃいました。私は、明るい電灯を元の暗い電球に戻すことにしました。そう思ってその部屋に入ると私達も言い知れない有難さに包まれる思いがいたしました。

       不自由を行として   
 教祖様は、「不自由を行とし」と教えらましたが、その不自由を信心の糧にされたご夫妻の慎ましい信心、元を辿ればそのように生きられた教祖金光大神様のご信心の跡を尊く仰がずにいられませんでした。不自由なくして人は幸せかというと必ずしもそうではありません。むしろ積極的に不自由をもつことで人は幸せになるのだということを教えられとように思いました。   

 いま私達は、生きる原点に立ち戻り、不自由を大切にし、欲望少なく生きることを考え、一人ひとり幸せを計る物差しを持ってみるのもよいのではないでしょうか。金光大神が、「難はみかげ」と教えられることも、そのことだと思います。新しい年、そんな生き方を貫かせて頂きたいものです。

 (2012.01.01 金光教品川教会「波の音」202 新年巻頭言)